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明日で全てが終わる…… こんばんは。読虫です。 最近、はっと思いついたことを忘れてしまいます。 いえ、日記で書くことですよ? なんだか思いついては消えて、思いついては消えて…… 小説もそんな感じだ。 自分自身、感情の表現が乏しくなってきたのではないだろうか。 感情をおおざっぱに分けた喜怒哀楽の四種類のうち、 哀を昔より感じなくなってきたと思う。 このことを友達に話したところ、ネットのやりすぎだと言われ、内心ギクリとした。 確かに思い当たる節もあることはある。 画面上だけでの他人(友人)とのコミュニケーションは、普段私たちが他人と話している時とは全く違う脳の部分を使っているのだ、という話を聞いたことがある。 ソースが無いので不確かなのだが。 文字を見て、友達とやり取りして笑うことも有る。怒ることも有る。悲しむことも有る。だが、考える時間があり、圧倒的に入ってくる情報量が違う。 ブラウン管や液晶画面に映し出される映像にも、同じような効果があると思っている。 例えば戦争や紛争をやっているまさにその現場を映していたとしても、現実感が無い。 すべては他人事で、僕らはただの傍観者だ。 明日わが身にふってくるなんて米粒ほどにも思っていない。 だから、ただ関心を寄せるだけの事柄でしかない。 それは四角い枠で囲ってしまっているからだと書かれた本があった。 なるほど、言われてみれば確かにそうかもしれない。 実際には、テレビで映し出されている映像の其の外側にも景色は広がっていて、風が吹いていて、日が照っていて、匂いがして、独特の雰囲気が漂っているのだ。 それを四角い箱だけで表現できるはずが無いのである。 一方で、ふいにもの凄く寂しい気持ちになる時がある。 自分の存在がもの凄く小さく感じて、消えてしまいそうになる。 だからといって生きているということを感じなくなるということも無い。 デカルトのように、全てを疑っても自分という存在だけが残る だなんて考えでは無いけれど、こうやって呼吸してタイピングしたり、何も考えずにぼーっとしていたり、痛いほど寂しくなったとしても、それが全て自分であると言うことをだいぶ前から知っている。 というよりも、普通は皆知っているのだろう。 だから再三言っているが、リストカットなどで自分の身体を傷つけて得られる痛みだけに、現実を感じたりはしない。 無論したことも無い。 彼らがリストカットをする気持ちも良く分からない。 それは、まだ私がその領域に入っていないという事実なのかもしれない。 そしてできれば知りたくない世界である。 情緒不安定なのは、テスト期間で気が滅入っているからだと思いたい。
by bombdog
| 2006-03-02 00:36
| 戯言
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